こばるとライダー日記

Soliloquy of a man riding a motorcycle and a convertible

ロシア出張の思い出

最近とあることから、ロシア出張のことを思い出したので、記事にまとめときます。

 

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私はあまり語学が得意ではなく、どちらかといえば苦手なほうです。TOEICの点数も恥ずかしくて人には言えない点数です。しかしなぜか会社では、私は一人でどこへでも行って仕事ができると思われていて、今までいろいろと海外出張をさせられてきました。

 

国内はバイクや車で走り回りますが、遊びで海外旅行へ行くことはあまりないので、会社の海外出張がなければ、私は海外オンチな人になっていたのは間違いありません。その点は会社にとても感謝しています。

 

アメリカやヨーロッパ、中国などへ出張しましたが、最も印象深く記憶に残ったのはロシアに行った時のことです。最後に行ったのは2011年。東日本大震災の時です。その出張はいろいろあって、私にとって忘れられない思い出となりました。

 

出張先はモスクワです。ある製品開発のため、調査会社のイベントに立ち会うためモスクワへ行くことになりました。関空からモスクワへの直行便はありませんので、オランダのスキポール空港で乗り換えることになります。オランダまではJALを使ってそこからKLMを使いました。

 

モスクワは、ドモジェドヴォ空港を使うことになってました。しかしその空港では数ケ月前に自爆テロがあったばかり。その当時のロシアは(今でもそう変わっていないのですが)周辺の国やソ連から独立した国々といくつか紛争があって、ロシアの軍事力に抗議するための自爆テロでした。空港では観光客を含めて37人が亡くなり、137人が負傷する大惨事でしたので、私も出張に多少迷いがありましたが、代わりに行ってくれる人もいないため、テロが起きたばかりなら、警備もしっかりしていて大丈夫だろうと、自分に言い聞かせました。

 

モスクワへ行くのは初めてではなかったので、それほどトラブルもなくドモジェドヴォ空港まで行くことはできました。空港に着くと予想通り空港の警備は厳重で、警察官がたくさんいました。空港からは、現地の会社が手配してくれたタクシーに乗って、モスクワ市内の会社まで向かいました。今はどうか知りませんが、ロシアは白タクが自由に営業していて、私が乗ったタクシーも個人タクシーでした。車のハンドルの上にノートパソコンを取り付けて、それをNAVI替わりに使っていて、運転しながらパソコンでメールしたりもするジャン・レノに似たタクシーの運転手は、英語を喋るのはいいのですが運転が荒っぽく、ヒヤヒヤするドライバーでした。

 

モスクワ市街地にある調査会社へ3日間ほど通いました。市内は経済の活気を感じると同時に、どことなく陰鬱な雰囲気を感じました。どのビルにも必ず入り口に屈強な体格の警備員がいて、中に入る来訪者をチェックしています。人気のないところや、夜間はやはり出歩かないように、と注意を受けました。

 

宿泊は日本大使館の近くの、そこそこいいホテルを予約してもらいました。温水プールなどもあって、仕事が終わると泳ぎに行きました。とても贅沢な気分で過ごすことができました。夜に外をうろうろするのはダメと言われていたので、近所のスーパーでウォッカを買って、寝るまでは一人で飲んでいました。

 

食事は一日だけロシア料理を食べに行きましたが、他はモスクワ市内の寿司屋にばかり行ってました。日本の握り寿司と違って、カルフォルニアロールのような巻き寿司ですが、とてもおいしかったです。お寿司がすごく流行っていて、あちこちに寿司屋がありました。ロシア語の「суши」というのはすぐに覚えました。

 

繁華街は活気がありました。ソ連時代の社会主義時代は貯金という概念がなく、その名残りで、もらった給料は全部使ってしまうと聞きました。食事の後にカラオケも行きました。ロシアのカラオケは大きなホールになっていて、カラオケ装置を何組もの客のグループが共有します。知らない人の歌を聞かされるのです。ロシア人の好きな演歌のようなゆっくりとした歌をみんな歌ってました。

 

その前の出張では、ロシアのバーで飲んでいいたら、催涙ガスが店の中でまかれてひどい目にあったこともありました。催涙ガスは初経験。涙が止まりませんでした。

 

ロシアの人々を見ていて思ったのは、ロシアは広大な国であるため、いろんな民族が混じりあっている、ということ。様々な人種がいる他民族国家であることがわかります。日本人は些細な容姿の違いを気にしますが、海外に何度も行くうちに気にならなくなります。そして、美しいロシア人女性の多さに驚きました。本当に綺麗な人が多いのです。

  

帰国する日の午前中。朝食をすませて荷物をまとめながらテレビを見ていました。ニュース番組で、日本の家屋が津波で押し流されている映像が流れていました。ロシア語はわかりませんが、日本のどこかで大きな災害が起きたことがわかりました。帰りもJALのフライトでした。飛行機の確認の電話をすると、成田空港の受け入れ状態のために、飛行機は飛ばないといわれました。どうしようかとロシアの会社の人に相談すると、空港に電話をしてくれて、ロシアのアエロフロートのチケットを取ることが出来たので、その飛行機に乗って成田までたどり着くことが出来ました。

 

エアロフロートは、西洋の払い下げのジェット機で古いのですが、パイロットがロシア空軍の戦闘機乗りのため、操縦がうまいと聞きました。日本の飛行機が飛ばないのに、ロシアの飛行機が飛ぶことに頼もしさを感じました。

  

いろいろあったロシア出張ですが、日本に帰ってきてからもほっとすることはありませんでした。もっと恐ろしいことが始まったのです。翌日からテレビで、福島の破壊された原子力発電所の映像が流れるようになったのです。

 

しかしあれから8年たって、すっかり日本は平和ボケに戻ってきたように思います。喉元過ぎればというやつでしょうか。でも私には、モスクワの寒々とした街並みと、津波や原子力発電所の映像などがセットで記憶に残っていて、冬になると思い出すのです。