先月から西国三十三所のお寺をまわっています。現時点で一番から九番まで回りました。
第一番 青岸渡寺(和歌山)
第二番 金剛宝寺(和歌山)
第三番 粉河寺(和歌山)
第四番 施福寺(奈良県)
第五番 葛井寺(大阪府)
第六番 南法華寺(奈良県)
第七番 岡寺(奈良県)
第八番 長谷寺(奈良県)
第九番 南円堂(奈良県)
今年中に半分くらいは終わりそうです。ペースが少し早すぎかもしれません(笑)
西国三十三所巡りをはじめる前には、ツーリング録としてそれぞれのお寺について個別の記事にしようと考えていました。でもネットで検索してみると、巡礼ブログがたくさんあるので、私がわざわざ書く意味もないなあ、と思ってやめました。
でもちょっとだけ感想などを書いておこうと思います。
御朱印について
今までいろんなお寺に行くことはありましたが、御朱印をいただくということは今回が初めてです。御朱印集めが最近若い女性にも流行している理由がわかりました。なんだか楽しいです。スタンプだけではなく、お寺の人が一筆書いてくれるのはよいですね。まわっている人の半分以上が女性という印象です。
西国三十三所は日本最古といいますから、さぞかしたくさんの人が巡礼をされているだろうと思ってました。でも、御朱印をいただくために並んでいる方は3~5組ぐらいのグループ。どのお寺でも御朱印の待ち時間は5分以内です。年末で寒くなってきたからか、新型コロナの影響があるのかもしれません。
私の御朱印帳は、京都の博物館で買った1300年記念の御朱印帳です。お寺ごとのページが決まっていて、右側に印刷ページがあり、左に御朱印をいただきます。紙質が墨をはじいて乾きにくいので、ちゃんと墨を乾かさないと閉じれません。
ありがたいことに、どのお寺にも乾かすためのドライヤーが置かれていますので、熱風で乾かしてから閉じています。ただしお寺の中で、ドライヤーの音をさせて乾かすのは、なんだか野暮な感じもします。昔の人はドライヤーなど使ってなかったですからね。
巻物に御朱印をいただいている方は、ドライヤーを使わずすぐに丸めているので、墨やスタンプインクが染み込みやすいみたい。私も次に回るときは巻物にしようと思いました。
お寺の商売について観察する
わざわざ行って御朱印だけもらって、スタンプラリーのようになるのは勿体ないので、私はきちんと参拝するようにしています。お庭や仏像も時間をかけて見ています。
いろいろ観察していると、お寺にはそれぞれ特徴があって興味深いです。また、お参りする人を増やそう、いろんなグッズを買ってもらおう、という工夫もされていて、ビジネスの視点で見ても面白いです。お寺によって商売の上手下手が見受けられます。
お寺で使うお金は次のようなものです。
・駐車場代(市街地、人気のある観光地は高め。200~1,000円)
・入山料(敷地内に入る入場料。500~1,000円)
・拝観料(お堂の中に入って、仏像を見学するための費用。500~1,000円)
・蝋燭、お線香(50~100円/本。願をかけて火をつける)
・御朱印のお礼(300円)
・お賽銭(私は100円程度。入山料や拝観料を払っているので、それくらいにしてます。)
・おみくじ(100~200円)
・お守り(600~1,000円)
他、ご祈祷料や、開運グッズなどいろんなものが売られています。
なんだかんだとお金を使わされます。ほとんど観光地化されているようなお寺もありますね。
昔あるお寺で、おみくじを引いたら久々の凶が出ました。そばにお祓い厄除け祈祷1000円と書かれてあり、お坊さんが座っていたのですが、厄除けは頼まず外でおみくじを結びました。結んでいるときに、他の人の結ばれていたおみくじが、やたら凶が多くて笑ってしまったことがありました。
お寺では、人件費、建築の修繕費、庭のお手入れなど、いろいろと経費もかかります。宗教法人は課税されないので、儲かっているイメージもありますが、おみくじの凶を多めに入れるくらいしないと経営がなりたたないのだろうなあ、と思いました。
仏像について
西国三十三所は、観音信仰のお寺のグループなので、各お寺には観音様の像があります。そして、観音様の他にもいろんな仏像や石仏などがあり、その造形を楽しむことができます。
私は学生時代にデザインを専攻したので、デザイン画を描いたり、それを木やプラスチック、金属で立体にするという課題をよくやっていました。なので仏像や建築などを見るのは純粋に楽しいです。
仏像は時代や彫った人によって、いろんな様式や細工の特徴があり、お顔の形や、着ている服や持っているグッズのデザイン、それらの彫り方、つくり方など、いろいろ違いがあります。細かい部分をじっくりと鑑賞すると、拝観料が安いと思うくらいの贅沢な時間を過ごすことが出来ます。
しかし参拝する人は、私のように造形や細工に関心がある人ばかりではありません。なのでこんなにいろんな種類の仏像をおくのは、宗教的に大丈夫なのかなと気になりました。というのも、仏像の種類が多すぎて、宗教のアイデンティティーが曖昧になっているような気がするのです。
例えば、観音像もあれば大日如来もあると、どちらが本尊でお祈りする対象なのか、よくわからないですよね。どれでも好きな仏様にお祈りしてください、と賽銭箱もあちこちにあると、宗教施設というより集金施設みたい。
あるお寺で聞いたら、廃寺になったお寺の仏像を引き受けたりしているうちに、そうなっちゃったとのことでした。お寺が廃業されるというのは、後継者がいないとか、檀家が減ったとか、それぞれ様々な事情があるのですが、困るのは御本尊などの仏像の処分。廃業するとはいえ、今まで信仰の対象であったものを廃棄することはできません。また美術品として売るわけにもいかない。
そこで同業の付き合いのあるお寺へ、引き取ってもらえるように頼んだりするのです。引き取るほうにも、もしかしたら参拝客が増えるかも、という目論見があったりするかもしれません。
しかし、だんだんといろんな仏像が増えていくと、何でもありのようなお寺になっていき、参拝客が増えるどころか、ありがたみが薄れ、その逆の効果になっているような気がするのですが、どうなんでしょうか。
これから先の長い若い人にも信者になってもらわないといけないのに、コンセプトの不在や宗教ビジネスの商根を見透かされて、先細りしていくのではないのかと心配してしまいます。
その点、京都はどの寺社も宗教色はあまり出さずに、庭園や建物を使って、観光施設と史跡としての伝統をうまく両立させていると思います。そういうところが京都人のしたたかな部分でしょうか。
いまから変わるのは難しいとは思うのですが、私は奈良が好きなので、奈良のお寺にはもっと上手に商売していただきたい、と思います。
余計な心配かもしれませんけど。